
柳 尚壱(リュウ ショウイチ)
1983年8月18日、茨城県に生まれる
父、母、兄、姉の5人家族
僕の父親は、いわゆる亭主関白で、とにかく厳しく、近寄りがたい存在だった
その反面、母はとても穏やかで、世間でいう優しい母親だった
周囲は父親の顔色を伺いながら、ビクビクと過ごす日々が日常だった
そんな父の教育方針で、小学校入学と同時に空手道場に入る
そのおかげで精神面は、他の誰よりも(同級生)劣らなかった
好きな科目は体育と徳育、知育は大嫌いで何1つ頭に入ってこなかった
強いて言うなら工作や美術(手先をつかうこと)、そのくらいだった
小学4年になるころ、習い事(空手)の帰りの道中で、母親が「お父さんと離婚する」と告げてきた
どっちにつくか、自分で決めろ!と父母に言われ1週間悩んだ. . .
まだ10歳にもならない当時も僕には苦渋の選択だった. . .
だが、そうも悩んでられないと. . .僕は「父親」を選んだ
兄と姉とは年が離れていたせいもあり、とっくに家を離れていた
笑顔もなく、暴力的で厳しい父だったが、心のどこかでこの人を一人してはいけない、そう思ったからだ。
優しい母と一緒にいたい、甘えたいと思う気持ちもあったが、僕の人生に甘えは必要ないと強く言い聞かせ、ひとり涙した. . .
そして父子家庭が始まった
高学年になるにつれて、国籍が違うことを理由に仲間はずれにされることもしばしばあった
そんなことが続いたせいか、普段は絶対思わないが、学校に行きたくないと直感的に思い、初めて学校を休むために仮病をつかった
いつもは何もしない父だが、その時は病院に僕を連れていき、仕事まで休んでくれた本当は、身体はどこも痛くないのに、正直焦った. . .
いざ診察を受け、医師から出た言葉は「盲腸(虫垂炎)ですね」だった
医師は明日にでも入院し、その次の日には手術いたしましょうと言ってきた
当時の僕には、何を言っているのか理解できなかった
いまさら父親に、学校に行きたくないから嘘をついたと言う勇気もなく、言われるがまま次の日には病床へ送り込まれ、案の定メスを入れられた
この時から僕は嘘をつかない、そして医者を絶対に信用しないと心に誓った(笑)
中学生になり、部活動がはじまる
スポーツは全般得意だったが、父、兄も野球のセンスがずば抜けていたため、自分も!と思い野球部に入部した
中3の夏、転機が訪れる
部活の引退試合を終え、いざ受験勉強が始まるタイミングで、父が仕事の関係で1人上京することになった
生活するための金は送ると言い残し、僕を1人置いて東京へ出て行った
そこから僕は他人の飯を食べて生活、家事も自分一人でこなすようなっていった
仲間はずれ、そしていじめもどんどんエスカレートしていったが、空手で養われた精神や忍耐が身ついていたのか、臆することもなく逆に立ち向かう姿勢の方が強かった
ちなみに、当時の成績はのび太くんレベル、これではどこにも進学できないと悩んでいたとき、一人の先生が救ってくれた
それが物理の先生だった。
その先生は、毎日誰よりも早く学校へ来ていた、そのことを僕は知っていた
僕は先生に頼み込んだ!毎朝2時間、勉強を教えてほしい!と. . .
先生は気持ちよく、引き受けてくれた!
その成果もあって、卒業間際には理数系だけはキテレツくんレベルになっていた
人間、目標を持つことの大切さをあらためて感じた
高校は工業高校に進学、いわゆる男子校だ
周りを見渡せば、製造業の工業地帯、卒業後の就職先は、地元の工業団地に就く!
というのがお決まりのコースだった。
しかし、それだけは避けたかった. . .
これから先に何をして生きていこうかと、真剣に悩んだ
もともとモノづくり(手作業)が好きだったので、手に職をつけ、人のタメに役立つことは何かずっと考えていた
そんなとき、むかし母が美容師を志していたという話を思いだし、その意思を受け継ごうと心に決め、『美容師』という仕事を目指すことを決意し、都内の専門学校へ進学するため上京した
考えてみたら、美容室で扱うたくさんの薬剤は、まさに化学や物理の世界、理数系を生かせると思い、熱量も上がった!!
仕事の関係で東京にいた父を訪ね、専門卒業までの2年間は住ませてもらうはずだったが、、父親の仕事がうまくいってなかったせいか、その苛立ちの矛先は当然のように僕に襲いかかる
日に日に、八つ当たりはエスカレートしていき、顔の原型が壊れるまえに家を出た!
ここにいては、学業に影響が出てしまうと. . .
落ち込んでもいられない、住む部屋を探さないと!と必死に都内の不動産を探し、走り回った!けど、貸してくれる部屋など見つからない。
ここでも自分の国籍が邪魔をしたのだ. . .
そんな時に、クラスメイトの一人が『うちの叔父が、都内で不動産業をしているよ』と声をかけてくれた、、
もう女神にしか見えなかった!!
そのおかげもあって、ようやく住む部屋が決まった。
本当に感謝の一言だ
専門時代は、この業界の特有のコンテストや大会がたくさんあった
手先の器用さを生かせると思い、思いっきり没頭した
その成果もあってか、校内外のコンテストにて数々の賞も取り、全国技術コンテストにて2年連続で2位という功績を残すことができた
後に、都内のサロンに就職、念願の美容業界に参入する
幸いにも、はじめに就いたサロンはヘアカットの技術には定評があるサロンで、オーナーも全国の美容師さんに技術を教えるほどの実力者だった
僕はとことん美容に関する知識・技術を習得するために休むことなく時間とお金は惜しまず投資した
見習い期間は、ほぼ毎日シャンプーの日々だった、月日を重ねることにできる技術も増えていったが. . .それと同時に手荒れを酷くなっていった。
気づいた頃には、グーの形もできないくらいにまでなっていた
僕は不思議でたまらなかった. . .
自分自身の手荒れもそうだが、キレイを求めにくるお客さまの髪の毛や頭皮も、同じように全然キレイになっていかなかった. . .
それどころか、どんどん酷い状態になっていく. . .
なかなか治らない手荒れ、そして来店するたびに汚くなるお客さまの髪の毛. . .その頃から僕は、この業界に対して違和感を持ち始めていった. . .
結局のところ、ヘアカラーやパーマを繰り返し、ボロボロなっていく髪の毛にシステムトリートメントであたかもキレイなったと感じさせる、、いわゆるマッチポンプ状態の負のスパイラルがこの業界にはあった
こうでもしないと、美容産業として成り立たない実態も知った
僕が描く「美容」はここにはなかった、、
ヘアカラーやパーマ、薬剤ともっと良い付き合いを知ることができれば、キレイな髪でいられるはず!
当然、下っ端の僕の思いは、スタッフにも、そしてお客さまにも理解されることはなかった. . .
正直悔しくてたまらなかった. . .
僕の手も限界に近づいて来た頃だった、、姉の紹介でとある「カラダの原理」を知る勉強会に参加した内容が衝撃的だったので、騙されたと思って、そこで学んだ内容を生活習慣に取り入れた. . .
見事に騙された!!!
生活スタイルを改めて数週間が過ぎたころ、、3年間何しても治らなかった手荒れが、うそのように引いた!!
カラダに何が起きたのか、意味が分からなかった!
それから僕は、衣食住をはじめ、カラダの原理原則について学び始めた!
学べば学ぶほど、現代社会の実態のヤバさを知ることになる💦
僕たち美容師が扱う髪・頭皮(肌)は、食べたものから作られるって考えたら、その事実を多くの方に伝え、本当の美を提供したい!そう強く思い始めた
その意思が固まって来て、10年世話になったサロンを離れ、新しい仲間とともに独立する
後に、ひとりの男性との出会いが、志事に対する概念や価値観が大きく変わることになる
その人と挨拶を交わし、、ていねいな言葉で話し始めた
「わたしは、独自の知識・知恵・ノウハウ・技術を使って、相手の問題・課題を解決するお仕事をしております。と…
その時、とても大切なことを思い出させてくれた気がした。
それ以来、業界の流行やヘアデザインを追うのを止め、学んできた資料、教材もすべて捨て、人それぞれが『髪・頭皮』にもつ悩みや問題にたいして解決できるようになることだけに注力した!!
そして分かったこと、『切り方、洗い方(シャンプー)』で解決できること。
美容師という観点から、「内面の美しさ」だったり、「カット」だけで解決できるという価値を与えるサービスは、世の中的にはまだまだ浸透していないが、ひとりひとり着実に増えては来ている!
もっともっと美容(健康)の大切さや、技術や価値を、多くの方に伝えていきたい!!
そしてもう1つ!!!(※重要)
「髪」という要素は、気分、感情、自信、姿勢、生き方、ストレス、病などなどに大きく直結します。
気に入らなかったら、気分が落ち、自信もなくなり、笑顔も生まれず、それによりストレスがたまる、、
そのストレスが原因で病んでしまうことだってゼロではないんです!
そんな日常は送って欲しくない!!!!
「髪」がキマると、姿勢に自信が満ち溢れ、感情も穏やかになり笑顔にもなれて、人に優しくなれて、ストレスフリーに生きていける!!
そう、うまく言語化できない要素を扱っている以上、ど真剣に向き合っていかなくてはなりません!!
僕の戦いは、まだ始まったばかりです!